【二宮くらし ④】~「日常こそ人生」歌う人が、山を耕しはじめた~

二宮駅のホームに降りた瞬間だった。
風に揺れる雑草。
どこか抜けた空気。
都会の駅みたいな窮屈さがなかった。
「この町、いいかも。」
竹内夏美さん、通称“なっちゃん”が、二宮に初めて降り立った日のことを、そう振り返る。
今では、二宮のふるさと祭りで歌い、山の上で農業を始めようとしている彼女だが、最初からこの町に何かを求めて来たわけではなかった。
むしろ逆だった。
「とにかく、誰も自分を知らない場所へ行きたかったんです。」
「もう疲れたな」から始まった二宮暮らし

1997年結成のバンド「Chuliplity(チューリップリティー)」のボーカルとして、長く音楽活動を続けてきたなっちゃん。
20代の頃は、年間70〜80本ものライブを行う生活だったという。
「昼くらいに起きて、スタジオ行って、ライブやって、打ち上げして、夜中帰ってきて。また昼まで寝て。」
ライブハウスを中心に活動していた世代。
“非日常”を日常にすることに憧れていた。
でも、気づけば疲れ果てていた。
「売れるわけでもなくて、バイトしながらバンドやって。ずっと走り続けてたけど、なんか疲れちゃったんだよね。」

当時は実家に住みながら、アルバイトをしつつ音楽を続けていた。36歳頃。
「誰も自分を知らない場所で、やり直したい」
そう思うようになった。
“湘南移住”への憧れではない。
“素敵な暮らし”を求めていたわけでもない。
「なんかもう、人生を変えたかったのかもしれない。」
「庭 平屋」で見つけた町

ある日、ネットで「庭 平屋」と検索した。
そこで偶然見つけたのが、太平洋不動産の物件記事だった。
「それまで二宮って知らなかったんですよ。」
気になって、一人で二宮へ来てみた。
そして、駅のホームで雑草を見た。
「都会の駅って、なんか窮屈じゃない?
でも二宮のホームって、すごい気持ちよかったの。」
その“抜け感”に惹かれた。
後日、太平洋不動産へ連絡し、物件を案内してもらった。紹介されたのは、少し古いアパート。
まだリフォーム工事中だったが、なっちゃんはすぐに「ここだ」と感じたという。

最初に検索してから契約まで、ほとんど時間はかからなかった。
契約日は6月13日。
自身の誕生日だった。
「流れがすごかったよね。」
そう笑う。
ひっそり暮らすはずだった

本当は、静かに暮らしたかった。
「ライブなんて、二宮でやるつもり全然なかった。」
誰とも関わらず、
ひっそり暮らすつもりだった。
でも、二宮では不思議と人との縁が繋がっていった。
二宮農園。
旅花のゴリさん。
ブーランジェリーヤマシタ。
チャイ処キング。
自然と仲間ができていった。
「自分から繋がろうと思ってたわけじゃないんだよね。」
そして、二宮農園で出会った“高見さん”に誘われ、ふるさと祭りでライブをすることになった。
「やるつもりなかったのに、また歌うようになってた。」
いい意味で、人生は計画通りにいかなかった。
「日常こそ人生」

二宮で暮らし始めてから、価値観が大きく変わった。
「20代の頃って、“非日常”を日常にしたかったんだよね。」
ライブ。
ステージ。
表現。
そういう特別な瞬間こそが人生だと思っていた。
でも、二宮で暮らしているうちに、ある時ふと腑に落ちた。
「日常こそ人生なんだって。」
何気なくコーヒーを飲むこと。
植物を見ること。
近所で誰かに会うこと。
静かな朝。
そういうものが、人生そのものだった。

「どっか遠くに幸せがあると思ってたんだよね。でも違った。」
なっちゃんが以前SNSに書いていた、
“かっこつけなくていい町”
“何気ない日常が特別な街”
という言葉は、まさにその実感から生まれている。
山の上で、土を耕す

現在、なっちゃんは小田原側の山の上で農業を始めている。
屋号は「NUTTREE GARDEN(ナッツリーガーデン)」。
みかんと花を中心に育てる予定だ。
農業を始めた理由を聞くと、彼女はこう答えた。
「消費者はもう終わりだなって思ったの。」
地震や社会の変化を見ながら、
“消費するだけの暮らし”に違和感を持つようになった。
「何かを作る人にならなきゃって思った。」
神奈川農業アカデミーを通じて研修を受け、2年間の農業研修を修了。
現在は、耕作放棄地だった山の土地を、一人で少しずつ耕している。

「お花だらけの景色にしたいの。」
その場所は、誰でも簡単に辿り着ける場所にはしたくないという。
「縁がある人だけ辿り着ける場所。」
そんな“幻の庭”を思い描いている。
種を育てる

話を聞きながら印象的だったのは、なっちゃんが“種”の話をするときの表情だった。
「私、育苗が一番好きなんだよね。」
マリーゴールド。
百日草。
ローゼル。
マクワウリ。

小さな種が、土を持ち上げて芽を出す。
その姿を、毎日至近距離で眺めているという。
「ビール飲みながら、ずっと見てる。」
そう言って笑った。
「今を老後だと思ってる」

最後に、これからどんな風に歳を重ねたいかを聞いた。なっちゃんは少し笑いながら、こう答えた。
「今を老後だと思ってる。」
都会で働きながら、
山へ通い、
たまに歌い、
絵を描き、
植物を育てる。
「やりたいことを、もう始めちゃってるんだよね。」

10年後、みかんの木が育ち、四季の花が咲く頃。
その山の上には、きっと今よりもっと、“なっちゃんらしい景色”が広がっているのだと思う。
取材後、なっちゃんからこんなメッセージが届いた。
「二宮町のキュートさを、私は私なりに守っていきたい。」
山の上で少しずつ育っていくその景色は、
きっと彼女自身の暮らしそのものなのだと思う。
写真:写真館じゅんじゅん